レッドパイン設立のいきさつ(日本語)

レッドパイン英語教室 And Englishサポートセンター

2014年05月28日 16:01

レッドパイン英語教室は2001年に本部町にて設立されました。ブレント先生は1992年から長いこと英語を教えてきていて、場所は塾や、保育園、学童、自宅での開講や、彼が与那原で経営していた喫茶店など様々です。沖縄のメインメディアである琉球新報やNHKに取り上げられたこともあるんですよ。

「新聞やTVに出ることはとても不思議な体験でした。番組や記事をきっかけに来てくれる人も多く、私のことを知っている人があんなにもいるなんて知らなかった! 本当にたくさんの人が私に会うために喫茶店『Gospel Cafe』に来てくれました。ただ、来てくれる人の中には、私と話すときにまるで古い知り合いと話すように話し、名前で呼んでくる人もいたので、なんだか居心地が悪く感じることもあったんです。知らない人と話すときに親しげにされることは、とても怖いことでもありますよね。私はどちらかというと物静かな方ですし、英語を教える仕事をしていなかったら、普段は人と話すことすらしていないでしょうから!(笑) ですから、人が私を昔からの友達のように話し始めた時には、何を言えばいいのか、どう反応したらいいのか悩んでいました。私にとって、人と仲良くなるということは時間がかかるものなのです。そんな私にとって、たくさんの人に声をかけてもらえることは、戸惑いではありました。ですが非常にいい経験でした。琉球新報さんとNHKさんには、取材してくださったことにとても感謝しています。」

 しばらくして、ブレント先生は喫茶店を閉め、与那原から首里に引っ越しました。「Gospel Cafe」は人々が出会い、元気を与え合い、友達を作るには最高の場でしたが、お金を作るのには向いていなかったのです。引っ越し先の首里では、ブレント先生の友達が開くコンサートがあって、キリスト教徒のパーティが開かれていました。そこにはコーヒーや美味しい食べ物が好きなお客さんが集まっていました。メニューは少しユニークで、チーズスパゲッティやチリ、ブルーベリーのタルトなど他では食べられないようなものばかりでした。

 まぁ、それは英語教室には関係ありませんでしたね!とにかく首里に引っ越してからはブレント先生は南風原にある「Cactus」という教室で英語を教え続けていました。その英語教室はHuntingtonさんという人によって設立され、とても成功していました。教室の名前はHuntingtonさんがアメリカに帰国し、オーナーが変わった時に変わったそうです。ちょうどその頃、ブレント先生は「Cactus」で教え始めました。それが1995年の4月です。「Cactus」のオーナーは沖縄でよく知られる瑞慶覧長敏さんという政治家でした。彼はとても良い人で、素晴らしい上司でした。

 何ヶ月か首里で過ごした後、ブレント先生と家族は友達の住む今帰仁村に引っ越しました。そして、自宅で英語を教え始めましたが、今帰仁村ではブレント先生の奥さんである清美さんの出身地である本部町に引っ越すまでの約2年間のみを過ごしました。

「正直、本部に引っ越してきた理由は、予期せぬトラブルに巻き込まれ、ただただ早く引っ越さなければいけなかったからです。本部町を嫌いだったわけではありません。ですが、特に好きだったというわけでもありませんでした。でも不思議なことに、引っ越してから家族の気持ちはすぐに大きく変わりました。本部に暮らしたかったというわけでは無かったはずが、ここで『平穏』を感じ、本部町を『ホーム』であると感じるようになったのです。」

 そして、沖縄県本部町でレッドパイン英語教室は始まったのです。

 「どうしてレッドパインという名前になったのか? それはとても簡単なことでしたよ!」

 清美さん(ブレント先生の奥さん)の家族は昔から小さな商店を経営しています。そこは以前の本部町では、何か欲しいものがあるとき、まず探しに来るお店の1つでした。
ブレント先生と清美さんが英語教室をつくることを決めた時、決めなければいけないことにはもちろん教室の名前がありました。さてどんな名前にするのか、とても悩みました。

 「その当時、私たちは清美さん家族の経営する商店の上に住んでいて、英語教室も同じ建物の中でやる予定でした。私たちはよく、英語教室の名前の候補をジョークで挙げました。もうどんな候補があったかも思い出せませんが、英語教室の名前を考えるときには、本当にたくさん笑ったのを覚えています。ある時、清美さんが言いました。『赤松屋(あかまちや)にしたらいいんじゃない?』それは彼女の両親が経営する商店の名前です。2人でまた笑いました。もしも、同じ名前の違う店が1つの建物にあったら、とても面白いでしょうから!」

 ですが、それから私は考えました。「赤松屋(あかまちや)」をどう英語に訳するかを!

 そして、レッドパイン英語教室は誕生しました。

 もし、話がここで終わりならこの記事はとてもつまらないでしょうね。幸運にも、そうではありません!

「英語教室を始めたきかっけは、経済的にとても厳しかったからです。『Cactus』で働いていたときには、それなりに良い給料をもらっていました。(ありがとう長敏!)ですが、その多くは『Gospel Cafe』に使われていましたし、辞めて今帰仁村に引っ越してからは、それはそれは厳しいものでした。これをお読みのみなさまもご存知のとおり、税金というものは給料が下がったら大きな問題になります。税率は昨年度の給料をもとに設定されていますから、あーぁ。。!」

 そうこうして、ブレント先生と清美さんが経済的に苦しい時期を過ごす中でレッドパイン英語教室は始まりました。しかし、そんな時に素晴らしいことが起こります! 教室の上に看板を設置し、開校の準備もそろった頃、2人の歓迎すべき来訪者がありました。1人は同じ本部町にある、「ひかり保育園」からです。彼女はブレント先生に学童の生徒に英語を教えられないかと尋ねました。

 「もちろん!」

 もう1人も素晴らしい女性でした。宜野座村の教育委員会で働いている方で、ブレント先生に宜野座村内の小学校で英語を教えられないかと尋ねたのです。

 「もちろん!もちろん!もちろんです!」

 「この2つのチャンスが私たちの経済危機を助けてくれました。しかし、2年ほど経ったころにはまた新たな問題を引き起こすのです。ひかり保育園は私が働くのにはとても良い環境でしたし、今でも教えています。(ありがとう、ひかり保育園!) 宜野座村での問題は1年契約にありました。1年間の契約を繰り返すということは難しい問題でしたが、それでも私は宜野座で英語を教えることが大好きでした。ただ、1年契約で働いている間は、自分の英語教室を閉めることも、規模を小さくすることも出来ませんでした。もし次の年に契約を結ぶことが出来なかったら、また経済危機に陥ってしまいますから。そのため、2つの仕事を掛け持ちしていましたが、とても、とても疲れてしまったのです。」

 最終的にブレント先生は宜野座での仕事を辞めました。教えることに疲れすぎて、英語教室の仕事もほとんどすべて辞めてしまうほどでした。新しい生徒を入れようとはせず、授業数も減らしました。

 「実はある時期、月謝をとても安く設定していました。なぜなら、もしも急に教えることを辞めたくなった時に、不満に思われたくなかったからです。いくつかのクラスはボランティアで教えていました。このことで酷く滑稽なのは、あんなにも必死に防ごうとしていたことを再度招いていることです。教えることに疲れ、辞めてしまったことで、家庭に経済危機がまたやってきました。以前ほどではありませんでしたが、お金のやりくりは厳しいものです。」

 こうしてレッドパイン英語教室からほとんどの授業がなくなりました。しかし2013年、ブレント先生はまた本格的に英語を教えることを決意しました! 彼はいつだって教えることが好きでしたし、生徒のことが好きなのです。

 「教えることを休めたことは喜ばしいことであり、また嬉しくないことでもありました。教えることを完全に辞めたことはありませんが、生徒をたくさん手放してしまいましたから。私は、自分の生徒が新しい何かを学び、理解するのを見ているのが好きです。もし、生徒が何かを理解できたなら、それが私の喜びでもあります。他にも、私は生徒も友人であると考えています。最近では『先生』と呼ばれることにも慣れてきましたが、『Brent』や『Mr. Brent』と呼ばれる方が好きです。名前以外で呼ばれることは、なんだか暖かさに欠ける気がしていまいますから。」

 「また生徒を受け入れるときには、走ったり、写真を撮ったりできる様に、自分の時間も大切にして、バランスをキープしようと思います。もし、たくさん入れすぎてしまったら、また同じことの繰り返しですから。そんなことは良くないですよね、トラックでインターバルをするとき以外には!」

 レッドパインの成り立ちを知っていただけたでしょうか?これからもニュースレターをチェックしてくださいね。ますますブレント先生の英語教育への考え方を理解してもらえると思います。それが英語を勉強するためのヒントになってくれるといいなと思います。

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